TNGC’s Blog

たにぐちさんのブログ

素因数分解とその直感

素因数分解に関するツイートが何回かバズったこと、あと周りの友人などから私がどうやって素因数分解をしているか聞かれることが多いので、この際メモしておこうと思う。ちなみに関連するツイート(の一部)はこんな感じ。

  

例えば街中を歩いているときにたまたま見えた車のナンバープレートが9821だったとしたら、その場で「あ、7×23×61だ」ってわかる。いや、見えるという表現の方が私には合っている。雑に述べると、私がやっている素因数分解は直感であり、意識的な計算とは別に数字が脳内に降ってくるというか、見える*1。とはいえそのように見えた理由を観察すれば、因数分解とかのテクニックを使っていることが(あとから)わかる。例えばさっきの9821だと、まず7で割ると1403になって、これに361足すと1764になるので二乗の差になる、といった理屈。他には、最近だと8177.20をかけると18の4乗と11の4乗に4をかけたものの和になるのが見える。これはソフィー・ジェルマンの恒等式の形そのものだ。ここから13×17×37というのがわかる。なぜ361を足したり20をかけたりしたのかは聞かないでほしい。私にもよくわからん。

 

ちなみに私は素因数分解の結果を記憶しているわけではない。確かに、「無意識的に以前素因数分解した結果を記憶していて、それを用いている」とか言われたらおしまいだが、無意識のうちに記憶しているかどうかを自分で確かめようがない*2し、少なくとも私はそのようには感じていない。「今言った解法は以前解説した解法と異なる」と指摘されたことがあるし、自分の感覚的にも特に定まった解き方をしているわけでも無いので、おそらく同じ数字でもタイミングが違えば違う解法で出力しているというのは正しいと思われる。

 

あと、これらのことを周りの人間から指摘されてから自分の思考について観察するようになったが、確かに自分でもよくわからない思考のプロセスは、それなりの頻度で発生しているようだ。私の素因数分解に対して首を傾げる人が多いが、実はそれほど珍しくなく、みんなも自分でもよくわからないプロセスを行っているのではないか、と最近は思う。

*1:もちろん、4桁の素数とかだとあまりよく見えないので、素数かどうか意識的に計算して判定する必要がある

*2:フロイトの「無意識」が反証可能性を持たないと指摘されているのと同じ要領。ちなみにこのような原理的に反証のしようのない指摘は、私は好きではない。

4年後期を前に思うこと

弊学*1は来週から授業が本格的にスタートするのだが、それに関して感じていることをメモしようと思う。

 

気付けばもうすぐ後期が始まり、学部生としては最後の学期を迎えることになる。院試は特に問題なかったので来年も同じキャンパスなのだが、学部生から修士になるにあたって予想される一番の変化はやはり四大学連合の制度を利用した特権*2が切れ、他大学の講義が受けられなくなることだろう。よくよく考えたら私がこの大学を志望した理由の4割くらいがこの制度の存在だったような気がする。

 

その分野の習熟具合のお粗末さにはあえて触れないでおくが、その上でこの3.5年の間いろいろな分野に触れた気がするなあと感じる。もちろん、それらは講義に由来するものもあれば、自分で半ば独学でやったものもある。そして政治学や哲学、都市工学や社会学や化学などなどに触れ、それぞれの違った趣を享受できたと、私は思う。よく「大学は人生の夏休み」と言われるが、これから研究者への道を歩み、分野が絞られることを考えると、確かに有意義な暇だったのかもしれない。まあ、研究の合間にこれら他分野の勉強はできるのだろうし、そうであってほしいが。

 

とりあえず後期は外語大と医科歯科の科目を取ることにした。一橋の科目は前期に詰め込み過ぎたので、流石にパス。卒論も気合を入れて取り組むのは当然だが、それはそれとして卒論に多大なダメージを与えないように気を付けつつ、最後の学期としてそれらの科目を楽しみたい。

*1:東工大と外語大と医科歯科のこと

*2:東工大生全員が行使しているわけではないし、寧ろ(教員曰く)他3大学すべて活用しきれているのは私ぐらいらしい